ことば

COLUMN

「わが街わが友 氷川台6」東京新聞 2010年12月3日付朝刊

ぼくは、1974年から88年まで劇団転形劇場に所属していた。

当初劇団は、港区赤坂に工房(アトリエ)があった。

アパートの一回をぶち抜き120人ほど収容できる手作りの小劇場で公演していたのだ。

 

太田省吾さんは、既成の劇場での公演を好まなかった。

既成の劇場は、合理的で便利で安全なのはわかっていた。

しかし、太田さんはもっと刺激的で緊張感のある演劇空間を求めた。

時には能舞台や洞窟ということもあった。

栃木県の大谷石採石場の巨大洞窟では、劇団全員がそこで二ヶ月間合宿をして公演を打った。

室温3℃という洞窟で二時間半の沈黙劇。観客は頭から毛布をかぶっての観劇となった。

 

80年代に入り、劇団は海外の演劇祭から数多く招待を受けるようになっていた。

そこで出会った刺激ある数々の劇場に太田さんや劇団員が誘発されたのは事実だと思う。

1985年、太田さんは劇団員の前である提案をした。「この赤坂の工房からもっと広い空間に引っ越そう」と。

転形劇場の場合、そこが稽古場であり公演場所になる。

いわば<拠点>という考え方なのだ。

 

それ以後、劇団員たちで手分けをして都内の空間探しが始まった。

現在のようにインターネットの時代ではない。情報は、自分たちの足で探すしかない。

廃工場や大きな民家というのもあったが、劇団に貸せないというのも多くあった。

そんな中で出会ったのがある倉庫だったのだ。

 

場所は、練馬区羽沢、地下鉄有楽町線氷川台駅、徒歩五分の物件。長屋のような倉庫群。

一・二階で120坪。赤坂の工房の約三倍の広さ。

新たな拠点として、夢の幅が広がったように思える空間だった。