ことば

COLUMN

「わが街わが友 氷川台7」東京新聞 2010年12月4日付朝刊

1985年、劇団の拠点は、赤坂から練馬・氷川台に移った。

二階建ての倉庫を借りて劇団員の手で改築、そこを自分たちの劇場にしたのだ。

この時期ぼくは、ほとんど家に帰る時間もなく劇場に寝泊まりしていた。

そして、俳優業以外にも政策やプロデュースの仕事もやるようになっていた。

 

その年の夏、念願の新しい芝居小屋が出来た。

名称を『T2スタジオ』とした。一階が劇場、二階がロビーと事務所になった。

こけら落しも大成功、多くの観客が足を運んでくれた。

下北沢や新宿に劇場が多かった時代、あえて練馬というのも面白かった。

 

もちろんスポンサーもなし、太田省吾を中心に自分たちの手でやっていくんだという強い意志があった。もちろん当初からわかっていたことだが、劇場運営には多くの費用がかかった。

そのために劇団は、今まで以上に数多くの公演をやらなければならなかった。そして、その稼ぎのほとんどをT2スタジオの運営に注ぎ込んだのだ。

結果劇団は、劇場運営という枷でがんじがらめになった。1988年、韓国公演を最後に劇団は、経済的理由で解散を決定。

心身ともに疲弊はしたが、自分たちは走り抜いたという自負もあった。

そしてぼくは居場所を失い、ひとりになった。37歳だった。

 

東京は、仮住まいの場所であり仕事場だと思っていた。

ぼくの故郷は徳島なのだが、帰るというよりも今は行くという感覚になっている。

東京に住んで40年、なのに東京のことをよく知らない。

これからも俳優である限り、ここで過ごしていくだろう。

そして今、こう思っているのだ。

ぼくの将来を描くこの地のことを、もっと知りたいと!