ことば

COLUMN

第2回「70年代フォーク」

〈あなたにとって、70年代フォークとはなんだったのか〉

先日、そんなTVドキュメンタリーの取材を受けた。

 

33年前、ぼくは高校生だった。

この国では、ゲバ棒と火炎瓶が飛び交い、アメリカでは、アジアで戦争をしていた。

ぼくはといえば、自分や世の中に対して問題意識を持ったこともない、どこにでもいるゴンタクレ(明るい不良)高校生だった。興味はといえば、サッカーと女の子と深夜放送。

兄から譲り受けたボロボロの真空管ラジオ。

家族が寝静まった後、毎日のように布団のなかで聴いていた関西発深夜ラジオ放送。

〈みなさん方のなかに自衛隊に入りたい方はいませんか……自衛隊じゃ人材求めてます、自衛隊に入ろう入ろう入ろう入ろう、自衛隊に入って花と散る〉

〈おいで、みなさん聞いとくれ、ぼくは悲しい受験生、砂を噛むような味気ない、ぼくの話を聞いとくれ〉

〈今日の仕事はつらかった、あとは焼酎をあおるだけ……どうせ山谷のドヤ住まい〉

高田渡さんや高石友也さんや岡林信康さんの唄だった。それまで触れてきた歌謡曲とは、まったく違う世界がそこにあった。

だからなんだと云われればそうなのかもしれない。しかし〈こころを打たれる〉ということは、〈なんだ〉と問うことがないことなのだ。そう、まちがいなく高校生の無邪気なこころは、熱く打たれた。

ぼくのこころは、唄のなかにあった。

 

取材当日。

撮影クルーといっしょに、ぼくが上京して初めて住んだ街・吉祥寺を歩くことにした。

当時、この街をどれほどほっつき歩いただろうか。もてあます時間のなか、ぼくはなにをすればいいのか、どこに行けばいいのか、わからないまま背中を丸めてウロツクしかなかった。

屋台のおでん屋、物静かなお爺さんのいた雑貨店・中島屋、時間潰しの名画座系映画館、立ち読みばかりしていた自費出版専門の本屋、フォークシンガーの溜まり場だったライヴハウス、ぼくが5年間住んでいたアパート・亀良久荘(きらくそう)……それらすべてが姿を変えていた。

そりゃあ、30年も経ちゃあ変わるってもんよ! そんなことわかっていながらも、ぼくは〈記憶の地図〉を大きく塗り替えるしかなかった。

「ああ……ええっと、なにもかもなくなって……しまっていますね」

そのあとの言葉を続けることが出来なかった。しかし、立ち尽くすぼくの背中をカメラは撮り続けている……。

〈あなたにとって70年代フォークとはなんだったのか〉……だったよね。

50年生きていれば、思い出のひとつも語ることはできる。しかし、そんな過去の思いや経験をヒモ解くようなことをしても、ぼくの気持ちは重くなるばかりなのだ。

そこでだ、少々恥ずかしいが云わせていただく……フォークは、ぼくの生き方に大きく影響を与えている。〈影響した〉ではなく、今も〈影響し続けて〉いる。それは、ぼくが俳優であることと決して無関係ではない。

2002年現在、70年代フォークは、ぼくのなかで棲み続けているのだ。

撮影後、久しぶりに加川良さんと有山じゅんじさんのライヴがあるというので下北沢に寄った。力の抜けた過激なオッチャン二人、理屈ぬきに気持ち良さそうに唄い、生き、続けていた。

 

・「音楽と人」2002年5月号掲載