ことば

COLUMN

第9回「アングラな目」

ぼくは、22歳で転形劇場という劇団に入った。

そこの主宰者である太田省吾さんに強く惹かれ、演劇の戸口をくぐったと言ってもいいだろう。もちろん由緒正しきくアンダーグラウンド〉である。そう、アングラ! 今時なら〈インディーズ〉とでも言えばいいのだろうか。

1970年代を大雑把な括りかたをすれば、演劇には〈新劇とアングラ〉の二つの道しかなかった。新劇には、一部上場の敷居の高さを感じていたし、ましてやそこに進むべき素養も気持ちもぼくにはなかった。20代そこそこの若造には、アングラのもつ猥雑さや防備なき無作法が身近に感じられたのだろう。だからといって〈劇団に入り、俳優になろう!〉という、それ相応の野心もなかったような気がする。自分の意思で出かけて行く任意の〈場所〉が欲しかったに過ぎない……それがすべてだった。転形劇場には、1974年から解散する88年まで在籍していた。その間、すべての太田作品に俳優として参加することになった。〈演ずる〉ということは、硬質な言い方をすれば、〈劇を通して自分を見る〉とでもいえばいいのだろうか。やり続けるほど、演ずるということのわからない領域を拡げることになり、その深みと迷路に入り込むことになるのである……ぼく自身、徐々にだが〈俳優になる〉ということにこだわり始めた時期であったのは事実だ。

転形劇場は、既成の劇場での上演をほとんどやらなかった。用意されたセイフティな場所ではなく、手間のかかる空間を劇場化してしまう……たとえば、地下80メートル・室温2度の洞窟に舞台と客席を作り、二時間以上の作品を上演したこともあった。それは、演劇鑑賞などという生易しいものではなく、厳しい冒険者の体験に近いものがあった。その作品に相応しい場所を探し出し、そこを劇場とする。これも転形劇場の演劇スタイルだったのだ。アトリエ(稽古場)も自分たちの手で造り上げた。その作業そのものが、まるで〈演劇行為〉の一部であるかのように、ぼくたちは手をかけ気持ちを傾けた。

初期の頃は、物語性のある台詞劇を上演していたのだが、身体と言語という課題を持つうちに、やがては舞台上で一言も台詞のない劇を上演するようになり、周りからは〈沈黙の転形〉と呼ばれるようになった。そして、国内外で数多くの公演もやった。

 

しかし、解散することになったのだ。その大きな理由としては、〈経済と表現〉だったと思う。食っていかなければならないという現実原則、そして新しい表現への行き詰まり……スポンサーもつけず自分達の力だけでやってきた自負や誇りもあったが、あと一歩……前に踏み出すだけの余力は、集団として持ち合わせていなかった。解散後、ぼくたちはどうなるのか……そんなことは考えもしなかった。疲弊し切った状況にもかかわらず、不思議とセンチメンタルな気持ちもなかったような気がする。

僕自身、解散するまでそんなことを15年間続けたのだ。

解散以後、ぼくは〈映像の世界〉で泳いでいる。だからといって、映画やテレビに出ることが目的で〈俳優)になったわけでもない。どんな生き方をしたいのか……そんな思いが劇という戸口をくぐらせ、たまたま〈俳優〉になったに過ぎないのだ。

 

そして2002年の今、ぼくは再び太田省吾さんの新作の舞台をやることになった。その作品は、決して機嫌のいいエンターテイメントではない。シンプルに過激に……演劇を通して裸形の人の姿を描きたいと、太田さんは考えている。

解散から14年という日々をお前はどう過ごしてきたのか、そんなことを突きつけられてる思いがしているのだ。

 

生半可ではない筋金入りの〈アングラな目〉がそこにある!