ことば

COLUMN

第10回「硬い夜」

11月は、いろいろあった。いろんなことがあり過ぎて、正直なにを書こうかと大いに悩んでしまっている。それらを明確に日々の記憶として刻むだけの余裕がないのかもしれない。情けないが記憶の断片だけが転がっている、そんな感じだ。

 

「あのぉ、今月は原稿書けませんでした。ごめんなさい!」

そんなこともありなのかな……許してくれるのかな?

「だって人間なんだから、そんな時だってありますよね」

こんな言葉、誰に向かって吐けばいいのだろう。

「イヤイヤ大杉さん、駄々をこねる子供じゃないんだから、がんばって書きましょうよ!」

編集担当のH氏の声が聞こえる。

オッとイケない、弱気な妄想に負けてはイケない。イケないのだ!

 

こんなことを考え始めて、すでに何日と何時間経ったであろうか。今夜も世の中は、いつも通りの闇の中で寝静まっている。やり場も行き場もない若い男達の嬌声が、近くのコンビニ前から犬の遠吠えのように寒空に響いている。

そしてぼくはと言えば、こうして原稿に向かっている。灰皿は、想いの分だけの吸殻の山となっていて……これって悪戦苦闘ってやつですか? そうかも知れない……そうかも知れないけど、今のぼくは実際そういうことなんだ。饒舌な日もあれば、寡黙を選択する日もある。機嫌のいい時もあれば、不機嫌を良しとする時もあるのだ。

ぼくは、悪戦苦闘の弁解を言いたいんじゃない。今の気持ちを書こうとすると、こんなことになってしまっているだけなのだ。うつむきかげんのゴンタクレの夜!

 

ここ1ヵ月間、数多くの取材を受けた。

四年ぶりに舞台をやるということが、その内容のほとんどであった。

「こんどの舞台の見所はなんですか?」

映画でもそういう質問を受けることがあるが、正直困ってしまう。もっとも取材者の質問としては、当然の問いだとは思う。しかし、ぼくはいつもその問いに戸惑ってしまうのだ。ここを観て欲しいと簡単に言い切れればいいのだが、それを言い切れないから〈観て欲しい〉のだ。だから、強いて言えば「見所は、全体です!」としか言うことができない。

「なにか、稽古中の面白いエピソードはありませんか?」

「あっいや、エピソードを作りに稽古場に行っていません。芝居そのものがエピソードのような感じですから……」不親切かも知れないが、これも正直な感想だ。

 

太田省吾作・演出「ヤジルシ」の舞台。

お客さんは来るのだろうかという、ぼくらの杞憂とは裏腹に連日たくさんの観客の方が足を運んでくれた。転形劇場時代からの長い付き合いの観客や初めて太田作品に触れる若き観客たち……極度の集中力と体力を要求される今回の舞台は、ぼくにとっても決して〈わかりやすい〉作品ではなかった。21世紀の現在、人はどこに向かおうとしているのか……そんな問いが底流としてはあったのだろう。演じる側にも明確な答えはない。答えが見つからなくても取り敢えず、舞台で彷徨ってみるだけの意味はあると、ぼくは感じていた。大げさな言い方をさせていただければ、観客の方と共に〈二時間のヤジルシ探しの旅〉を味わったとでも言えばいいのだろうか。

島次郎氏の手による舞台美術も、現代文明の吐き出した夥しい廃物に覆われていた。クラッシュされたコンピューターや自動車のゴミの上でぼくらは、演じなければならなかった。凸凹の舞台そのものが、まさにぼくらの置かれている〈不安定な現在〉であるかのように……。

 

面白いと言う人、難解だったと言う人、泣いたと言う人、熟睡している人……さまざまな観劇の感想が、ぼくの耳に届く。観客が、舞台をどのように観るのか、その解釈は自由なものとしてあるべきだと、ぼくは考えている。

多くの表現が、わかりやすい方向に行きたがっている。ぼくは、わかることがいけないと言っているのではない。ただ、わかるということは、たいした事ではないと感じているのだ。表現として〈人あるいはものを描く〉ということは、きっと〈わかること〉の先にある領域に足を踏み入れてみることではないのか……そんな風に考えているだけなのだ。

朝刊がポストに落ちる。そしてぼくは、今月の『音楽と人』の原稿を書き終えた。それは、ただ書き終えただけであって、書き足りなさが残っている。それは、ぼくの力不足と比例している。だからぼくは、これからも書き続ける。バカな実感だ!

「ヤジルシ」というの舞台公演を無事に終えても、ぼくのヤジルシ探しはまだまだ続く。