ことば

COLUMN

第12回「兄がいたから」

初めて東京で暮らしたのは、吉祥寺の家賃6000円のアパート亀良久荘(きらくそう)だった。日当たりの悪い四畳半、入口に半畳ばかりの台所、もちろん便所は共同だ。風呂は近くの銭湯に行った。当時はそれが普通だったし、今のような小洒落たワンルームマンションなどなかった時代だ。

 

上京して、住むなら〈吉祥寺〉それだけは決めていた。それは、兄の影響だった。兄は、六年も大学浪人をしたが、結局目指す大学に入れず、私学に通っていた。同じクラスには、吉永小百合さんがいたらしい。

「やっぱり、運命やねぇ」

自称・サユリストの兄は、自慢気にそう言う(当時兄は、吉永さんのレコードをすべて持っていた)。「洋ちゃん、吉永小百合さんと話したことあるん?」

「ないない! 後光が差してるんや……いつも見てるだけ」

「なんやそれ、見てるだけかいな!」

そんなサユリスト・洋兄ちゃんの言うには、

「ええか、東京に住むんだったら吉祥寺、酒呑むんだったら新宿・ションベン横丁かゴールデン街や」ということだった。

「吉祥寺はなぁ、お前の好きなフォークシンガーが、普通に町ゴロゴロ歩いとる。高田渡さんなんかなぁ、昼間から公園で酒呑んでるし、彼らの唄を生で聞ける飲み屋もあるんや。」

「えっ、ほんま?」

「ほんまや! 唄もそうやけど、ああいう人は、普段でも嘘なしに生きとる!」

高田渡さんや加川良さんや友部正人さんが、普通に歩いてる町、呑んだくれている町、吉祥寺!

「洋ちゃん、決めた決めた! 吉祥寺に住むでぇ!!」

ぼくにとって、武蔵野・吉祥寺はまさに〈☆地上の星☆〉だったのだ。

 

そう、当時まだ高校生のぼくにボブ・ディランの存在を教えてくれたのも兄だった。

「首からハモニカぶら下げて、ギター1本で勝負しとる。ディランは戦争反対や……きつい唄やで。かっこエエやろ!」

突然だが、こそっと大胆に言い切ろう。あの時ボブ・ディランに出会わなければ、ぼくは俳優になっていなかった。こんな生き方はしていなかった。

ディランに一歩でも近づきたい!

そんな想いのなか、やっと手に入れたギター。もちろん弾ける術もなし。しかし、当時はギターを持っているだけで、ぼくは徳島のディランだったのだ。

兄のお下がりの丈の合っていないジーパンと純白のTシャツ(といっても下着だ)そして肩からぶら下げたギター。まるで日活無国籍映画時代の小林旭さんの如く、徳島の田舎の畦道を闊歩した。近所のおばさんは、

「大杉さんの一番下の子、最近ごっついゴンタクレ(不良)になったねぇ」

そう言われもした。

そんな言葉はどこ吹く風、ぼくはディラン気取りの勘違い野郎として有頂天だったのだ。

後日知ることになるのだが、ぼくの手にしたギターは、ディランの持つスチール弦を張ったフォークギターではなく、クラシックギターだった! 嗚呼だからか、どうも音が違うとは思っていたんだ!!

ディランを知り、岡林信康の唄に震え、高田渡や加川良の世界に出会う……

そして、憧れの吉祥寺だ。

でもねぇ、さすが東京だよ、参ったよ。だって、全国各地の〈ディランもどき〉がウヨウヨ闊歩してるんだもん。

 

その日暮らしのオイラのような人間でも、かつては穏やかな寛容さでなんとか過ごせる時代があった。フォークシンガー・高田渡さんじゃないが、「銭がなけりゃ」それなりにどうにかなったのだ。いよいよ切羽詰まったら、高田馬場の通称〈たちんぼ〉をやればよかった。〈たちんぼ〉とは、日雇い肉体労働者のことだ。早朝に出かけ、怖そうな口利きの男から仕事を貰う。現場まで車で運ばれ、指示された場所に穴を掘る。一体その穴がなんのための穴なのか、なんの説明もなく、ぼくは地球をいたぶるかように穴を掘り続けた。日が沈む頃、オヤジさんから金を貰って一日は終わる。

 

 

いやいや、のどかで気楽な話だ。

 

「音楽と人」2003年3月号掲載