ことば

COLUMN

第28回 「噴火するぞ」

もう六月だ!

それがどうした。イヤどうもしてはいないのだが、どうもしてはいない自分について考えてみる時もあるのだ。どうもしてはいないことが良いことなのか悪いことなのか。それともどうもしていない自分をどうにかしたいのか。当たり前だが日々感情や思惑の波に揉まれ続ける。犠牲化した精神の消化不良状態と言えばいいのか。しかし、ぼくは生き続ける。生きている限りこの厄介な自問自答に振り回されるのだろう。

〈自分はどうする、自分をどうする、自分ならどうする〉

だいたい〈ケセラセラ〉でやってきたじゃないか。どうにもならないことなんて本当はほっとけばいいのだ。それにもかかわらず自分が迷宮の散歩者になりたがろうとしている。

どうにかしようとしてるでしょ!

 

去年から今年にかけて何人かの友人・知人が他界した。ぼくにとって大切な方ばかりだった。ぼくの携帯にその方たちの電話番号がある。いまだに消去されることもなくそこにある。

永遠に不在の電話番号。

人はいつか死ぬ。ぼくもいつかは死ぬ。生まれ育ちやがて死ぬという現実原則、これは絶対だ。ぼくは、今年九月に53歳になる。だけど気持ちは元気だ。相変わらず厄介な自己に振り回されている。悩むことがライフワークとでも言えばいいのか、そのせいか元気だ。52歳って立派なオヤジだよ。昔はそう思っていた。でも自分が実際そんな年齢になったら、これが本当にたいしたことないというか、若い頃と比較しても考えてることなんて大差ないんだよね。そりゃあ多少は世渡りがうまくなったとか、我慢強くなったとか、人の目の色を窺うことが出来るようになったとか、大人として歩まなくてはならない〈妥協街道〉を身につけつつ、やはり自分は自分ですという最後の砦に足をつけているつもりだ。何度も言うが歳を重ねても概ね気持ちってやつはそんなに変わりぁしません。

じゃあ身体はどうなんだろう。きっと気持ちと身体ってシフトしているものだよね。だから切り離して考えることって出来ないんだろうけど、あえて身体はどうなのか。あのね、確実に衰えています。ぼくは男だ。「音楽と人」の読者には、若い女性もたくさんいると聞く。でも正直に書こう。ぼくは52歳の男だ。

願望として死ぬまでセックスをしたいと考えている。男なら当たり前のことだ。それはぼくの場合〈生きる〉という欲望と連動している。

以前鹿児島の家人の実家での出来事。深夜就寝中に襖がガタガタと揺れた。ここは鹿児島! といえばやはり桜島だろう! 年中噴火を繰り返すあの活火山だ。「また桜島の噴火か……」ぼくは寝返りをうつ。相変わらず襖はガタガタと揺れている。「フゥーフゥー」という人の声? 隣室には99歳のおじいちゃんと97歳のおばあちゃんが寝ていたのだが、どうやらそのフゥーフゥー声はそちらから聞こえてきたのだ。「鼾?」いや鼾にしては、色艶がある。

ぼくの頭は妄想の渦に巻き込まれていた。「いやぁ、まさか……」ぼくは、そっと起きあがった。そして、襖に耳をダンボする。「フゥーフゥーフゥーフゥー」規則正しく打つメトロノームのように一定のリズムが刻まれている。「これは……これって桜島の噴火じゃあない!」ぼくの心臓は不規則なリズムを刻み始めていた。手には汗! 小さな決意のあと、ぼくは忍びの者のようにそっと襖を少しだけ開いた。

そこには、ああぁぁぁぁぁぁ99歳のおじいちゃんが97歳のおばあちゃんの上に乗っかっていたのだ。そして、おばあちゃんの口からあの美しいリズムのフゥーフゥー声が漏れていた。後光がさしていた!! いや、本当にさしていたんだ後光が! お賽銭箱があれば有り金全部入れてもいいと思った。そして、手をあわせたかった。人間とはなんと切なく愛おしいものなのか。

身体は衰えていく。だけどね、赤ちゃんだって若い人だってこの世に生まれた瞬間から死を避けることは出来ない運命にあるんだ。いつかはその日が来る。ぼくにも来る。あっさりと逝けるかもしれないし、病に臥してながらえるかもしれない。そんなの誰にもわかりやぁしないんだ。

つくづく思っている。元気に衰えてやると……。

追記、あの夜おじいちゃんが噴火したかどうかは知るよしもない。

 

「音楽と人」2004年7月号掲載