ことば

COLUMN

第52回「ディロン」

犬の〈風ちゃん〉を飼い始めて一年四ヵ月が過ぎた。

彼女は、我が家の一員となり元気に過ごしている。

大げさではなく犬を飼うことによって、生活のスタイルもかなり変わったと思う。

飼う以前は、あまり近所に出歩くこともなかったのだが、飼い始めてからは犬の散歩で頻繁に近所をうろつくようになった。そのせいか、やたらと近辺の道に詳しくなってしまった。

以前はあまりなかったご近所づきあいも風ちゃんを通してかなり増えた。

普段は強面(こわもて)のおじさんが「ああ風ちゃん散歩かい、可愛いねぇ!」と言ってくれる。もうそれだけで、ぼくの中の強面おじさんは〈100%いいひと〉になってしまう。そして、おじさんとの立ち話が始まる。もちろん四方山話……そして、そこに新たに近所の人も加わる。ああっそうか、これが井戸端会議というものなのか。東京に出てきて36年、このような経験はあまりなかった。

たかが犬一匹、されど犬一匹!なのだ。

 

四月から撮影に入っていたNHKドラマが、今日クランクアップした。

「ディロン・運命の犬」という。

そうタイトル通り、犬が出てくる作品なのだ。

ストレス症候群に陥っていた主人公(樋口可南子さん)が、偶然〈捨て犬〉と出会うことによって、生きる元気や勇気を取り戻していくというストーリー。

そしてオイラは、その主人公の夫役。しかも、しかもだ、なんとその夫役の人物設定は犬嫌い!  皮肉だよなぁ、だってオイラ犬大好きだし……苦手でも嫌いでもないし……。

 

そして、いよいよディロン(ゴールデンレトリバー)との初共演の日……。

「はじめまして、大杉といいます。よろしくね」。ぼくはディロンに挨拶をした。

どこまでも優しい眼差しでディロンはぼくを見上げた。おまけに尻尾を超ご機嫌さん状態で振り振りしているではないか! ああっ可愛い、なんと愛おしい犬なんだ。

無意識にディロンの全身をナデナデしているぼくがいた。

「大杉さん、駄目ですよ。犬嫌いの設定なんですから……あまりディロンに慣れないでくださいね、撮影中はディロンと距離を持って……お願いします。アッハハハ」とスタッフに思いっきり釘を刺されてしまった。

『南極物語』や『クイール』のドッグトレーナーだった宮さんに思いっきり釘を刺されてしまった。

樋口さんは、いいよなぁ。だってオイラと全く逆の設定で犬好きなんだから!

実際、樋口さんも数年前から犬(ブイヨンちゃん)を飼っていて、犬が大好きのようだ。

ああっ、あの樋口可南子が、ディロンに頬ずりしたりナデナデしてるぅぅ……って、ぼくは樋口さんが羨ましいのか、ディロンが羨ましいのか、とても複雑な思いを抱きつつその光景を横目にするしかなかったのだ。

 

以前、ベテランの俳優さんに教わったことがある。

「大杉君、俳優はね、どんなベテランでも動物と子供にはかなわないからね……これっ本当だよ」

今回のようにたくさんのシーンでがっぷりと犬と演技するのは、ぼくにとっても初めての経験だ。

某日、スタジオ収録の日。

樋口さんとオイラ、そしてもう一匹の俳優犬アリスのシーン。

長丁場のシリアスな場面。テストでは本物のアリスではなく、取りあえずぬいぐるみをアリスに見立ててやった。何回かのテストを終え、いよいよ本番だ。本物のアリスがドッグトレーナー・宮さんに連れられて悠然とスタジオに入ってくる。樋口さんとオイラの間にアリスはお座りをする。そして、いよいよ本番。スタジオの中、独特な緊張感が走る。

「それでは本番いきます、10秒前……5秒…4…3…2……」

樋口さんとぼくの長いセリフのやり取り……ウーンなかなかうまくいっている……あと少しで終わるという瞬間。

「あああああっ、すいません、ああっもう一度お願いしますぅ」

樋口さんもぼくも、なぜ途中で止められたのかわからなかった。

「どうしました」……とぼくが聞く。

「ああっ、アリスが……あのぅアリスが、本番中にウンチを……」

見るとそこには立派なウンコがあった。

ウーン、大したものだ。これがもし本番中にオイラがしたウンコなら、大杉漣はおかしいよと言われるであろう。しかし、アリスのウンコなら誰しもが納得をする。

あのベテラン俳優の言葉が、真実味を帯びた瞬間であった。

 

とにかくエピソードだらけのドラマだった。申し訳ないが、今回はここまでだ。岡崎栄監督のもと、贅沢な時間を過ごした撮影も終わってしまった。

ディロンとの最後の日、思いっきりの頬ずりとナデナデと別れのキスをしたのは、言うまでもない。

 

「音楽と人」2006年7月号掲載