ことば

COLUMN

第58回「ばかやろう!」

さて、先月まで書かせていただいた「五円玉彷徨」……大きな反響もなく静かに終えた。

音人・編集者の樋口さんだけは面白がってくれたので、その励ましを糧に調子をこいて書き続けることが出来た。ぼくにとって昔の自分と今の自分について考える契機にもなり、決して捨てたもんじゃあなかったなと感じている。若い頃、五十過ぎのオヤジの考えることなど知る由もなく想像したこともないのだが、いざ自分が五十過ぎのオヤジになってみると……なんだぁこんなもんかよ、この程度なのかよ、なんも変わっちゃあいないじゃん……若い頃考えていたことを今この歳になっても同じように考えているのかぁ……なんて再認識したのである。

オット、今月は突然だが、泉谷しげるさんのことを書こう。

 

ぼくが泉谷しげるさんを知ったのは、今から35年前だ。

友人のおんぼろアパートで聞いた彼のデビューレコード。弾くというより叩くようなギター奏法、しゃがれた声で唄う彼の歌は、ガキの心を強く打った。

 

泉谷さんに初めてお会いしたのは、1983年。

当時注目されていた映像集団・ディレクターズカンパニーが製作したローバジェット映画の撮影現場であった。高橋判明監督の紹介でぼくもその映画に参加することになったのだが、なんと! その作品の監督が泉谷しげるさんだったのだ。

撮影初日、初対面のぼくに彼はこう言った。

「よう!  芝居なんかするんじゃねえぞ! ばかやろう! 役者の芝居なんか嫌いだからよぅ ! セリフなんかもいいかげんに喋ればいいんだからよう、とにかくキチっとやるんじゃあねえ! わかったかぁぁ!」

言葉で書くと乱暴な印象になるかもしれないが、監督としての愛情は十分感じたし納得できる言葉でもあった。その作品でぼくがどう演じたのか、今となっては記憶は薄い。しかし、泉谷さんの言葉と存在だけは記憶の中に深く刻み込まれた。余談だが、後に気づいたことがある。泉谷さんの口癖となっている「ばかやろう!」と北野武監督の「ばかやろう!」は非常に似ていると……。

1985年。

当時ぼくの所属していた転形劇場が、練馬にあった倉庫を改装し自分たちの手作り劇場を持った。既成の劇場ではなく舞台も客席も変幻自在、稽古場兼劇場にして自分たちだけの〈自由空間〉を造ったのだ。

そこでのこけら落とし公演の企画をどういう経緯かぼくがやることになったのだ。

転形劇場の公演、大野一雄さんの舞踏会、そしてもうひとつ音楽の企画を求められた。

咄嗟に思いついたのは、泉谷しげるさんだった。泉谷しげるライヴ!

映画に出演したといっても少しだけ、おそらくぼくのことなど忘れているだろう。ましてや練馬の倉庫で泉谷さんがライブをやってくれるのだろうか。

まさに玉砕だった。その当時マネージャーだった泉谷さんの弟さんにお会いすることになった。

「予算もなく場所もよくない……音楽には素人のぼくたちの企画ですが、是非泉谷さんにやっていただければと……お願いします!」

弟さんは多くを語らなかった。ぼくの気持ちを泉谷本人に伝えるとだけ言った。

そして後日、朗報は届いた。

「練馬、倉庫、面白れぇじゃねえか! いいか三日間だぁ、三夜連続のライヴだぁ! わかったかぁ、ばかやろう!」

泉谷さんからの暖かいコメントが、そこにはあった。

ギターは布袋寅泰さん、ベースは吉田建さん。ゲストに忌野清志郎さん・遠藤ミチロウさんが参加。今思うと凄い豪華メンバーだったのだ。これも泉谷さんの人望なのだろう。

チケットは完売。

一夜目、泉谷さんは全身全霊で舞台を走り抜けた。練馬の倉庫はすばらしいライヴ空間になった。終演後、楽屋に倒れ込む泉谷さん。しばらく声を掛けることができなかった。

二夜目、昨日以上にパワーアップ。声は完全にクラッシュしていた。

三夜目、なんと声復活。あの恐るべきパワーはどこから来るのか。この夜、客のひとりが泉谷さんをライヴ中になじった。泉谷さんは足が多少不自由である。そのことについて客が言ったのだ。演奏を終え開口一番、泉谷さんはこう言った。

「いいかぁ、世の中にはなぁ、頭の悪い奴もいりゃぁ、体の悪い奴もいる、でもなぁ一番悪い奴はなぁ、ここの悪い奴なんだょぉ!!」と自分の胸に手を当てた。一瞬の静寂、そして観客の歓声と怒号……ぼくは舞台の袖で鳥肌を立て泣いていた。

 

昔よりも今の方が泉谷さんとは親しくなった。ドラマでの共演もある。しかし、これ以上近づきたくもなく離れたくもないと思っている。今も会うと必ず「ばかやろう!」はある。

 

〈泉谷しげる〉は、ぼくにとって永遠の歌手なのだ。

わかったか、ばかやろう!

 

「音楽と人」2007年1月号掲載