ことば

COLUMN

第66回 「太田さんが…」

「劇の戸口は、追われてきた者がたどりつくところであるといえる。彼は彼の個体に抑圧を加えるものたちから追われるように、どのような経緯をたどってか、ここへやってくる。

現象を見れば、さまざまな者がいて、劇の戸口に立つ時、なにか目的意識、社会的意義といったようなものをもって胸を膨らませている者もいるが、それはただ単に悪質な観念をどこかで吹き込まれたからであって、己の行為をすなおに意識した結果であるとはいえない。(中略)悪質な観念は常にそうだが、不健全さを治癒したがる。現実社会において自由な者、健全にくらすことのできる者がどうして劇を欲し劇へ足を運ばなければならないのか。

劇はまずはじめに人間の不健全がたどる方法である。劇を行うにふさわしい者はおそらくこの世には存在しない。存在するのは、ただ現実の生活に適さない面をもった者たちである。そして、そのうちの幾人かが劇を行うにいたるだけである。」

(太田省吾著「飛翔と懸垂」而立書房刊より抜粋)

 

長い引用になってしまったことを許していただきたい。

ぼくはこれまでも取材や番組で何度かこのことに触れてきた。

このこととは、ぼくが俳優になった〈きっかけ〉のことである。

ぼくはなぜ俳優になってしまったのか、それは太田省吾さんのこの文章に出会ってしまったからだ。当時人気の唐十郎さんや寺山修司さんのような派手さはなかったが、太田さんの言葉は確実に22歳の若造の心に突き刺さったのだと思う。

 

「大杉と申します……太田さんの文章を読ませていただきまして……一度劇団に伺いたいのですが」

経緯は忘れてしまったが、転形劇場に電話をした。そして、偶然にもその電話に出たのが太田省吾さん本人だったのだ。

「明日午後、劇団のアトリエに来れますか」

太田さんは、それだけをぼくに伝えた。

 

ぼくの目の前にあの文章を書いた太田さんがいる。

「大杉君は、俳優志望ですか」

「いやぁ……別にそうではないんですが……そのぉ太田さんの書かれたもの読ませていただきまして……あの」

「ああ、そうですか……もし入りたかったらどうぞ」

それ以上、言葉は続かなかった。長い沈黙のあと、ぼくはアトリエを出た。

ひどく緊張していたことだけは今も覚えている。

あの日、太田さんにお会いしなければ現在のぼくはここにはなかっただろう。

 

1974年に太田省吾が主催する劇団転形劇場にぼくは入団した。

入団してすぐに太田さんから舞台に出なさいといわれ、「老花夜想」という作品で転形劇場の初舞台を踏んだ。老娼婦を買いに来る〈客B〉という役柄だった。セリフもいくつかあり、とにかく無我夢中にやるしか手立てはなかった。もちろん演劇の面白さなんてよくわからない、とりあえず今オイラのやっていることはこれなんだ、その程度だっただろうか。劇団員の誰かが演技について教えてくれるなんてこともなかった。ただ黙々と肉体訓練をし、公演の稽古をした。

演出家でもある太田さんも決して言葉の多い人ではなかった。ただ稽古を見ている、静かに観察している……そんな感じだった。演劇人というよりも哲学者の匂いに近い人だった。役者デビューのオイラにも演出らしいことはなにも言わなかった。これでいいのかどうかすら、よくわからず日々の稽古を重ねていった。稽古途中に思いつきで全裸で舞台に出ることにした。根拠も理屈もなく、ただ他の方法が見つけられなかった……そんな時はとりあえず全裸だろう!なんて勝手に考えたのだと思う。何日も何日も全裸で稽古を重ねた……そんなある日、太田さんがぼくにこう言ったのだ。

「大杉君……飽きたでしょ。ねぇ、もうそろそろ飽きたでしょ。次の方法探してみて」

具体的にこうしなさいとは、決して言わなかった。「飽きたでしょ」この一言だった。ぼくのダメージは大きかった。もっと早く言ってよぉぉぉ、駄目なら駄目って……もっと早く言ってよぉぉぉ。

太田さんは待つ演出家だった。とにかく辛抱強く待つ人だった。答えをあせらないでくれ、目の前にあるのがとりあえずの答えだとしてもそれへの疑いを常にもって欲しい……そう言われているようだった。掛け算でも足し算でもない、これは確信に近い感覚だが太田さんは、引き算の演劇を目指した人だと思う。饒舌な言葉や余分な肉をそぎ落とし、最後にそこにはなにが残るのか……そこに太田さんの演劇があったのだと思う。

「大杉……飽きたでしょ」この言葉、俳優であるぼくの戒めとして今も生きている。

ありのまま言おう。ぼくは混乱したままの状態でここにいる。どんな言葉を置けばいいのか……。

2007年7月13日午後5時10分、太田省吾が死んだ。享年・67歳。

太田さんは、亡くなる前日まで新作の話をされていたそうだ。

 

「音楽と人」2007年9月号掲載