ことば

COLUMN

第77回「五年も舞台やってない」

ここ五年間、舞台をやっていない。

やりたいとは思ってるがやっていない。

やらない特別な理由はない。もちろん誘いもあるが実現していないだけ。

じっくりと〈ものづくり〉を味わうためには、やはり舞台が一番だと考えている。

 

ぼくは22歳から37歳まで転形劇場という劇団に所属していた。

「沈黙劇」というかなり変わったメソッドを持つ舞台をやっていた。

劇団の代表は、太田省吾。

彼と出会ったから、ぼくは俳優になったといっても過言ではない。

太田さんは、ぼくと同じウサギ年のてんびん座、年齢は一回り上だった。

自分の表現にトコトンこだわる演出家、そこに妥協はなかった。

決して声を荒げて自分を鼓舞するような演出家ではなかったが、それゆえに却って怖さと深みを持った演出家だった。

当時は、日本よりもヨーロッパでの評価が高かったと思う。

既成の劇場公演はほとんどやらなかった。手作りの稽古場(アトリエ)を持ち、一本一本その作品に相応しい空間を選び、舞台を創っていた。手間はかかったが実に楽しい作業だった。

日本のアンダーグランド劇団が伝統のある「能舞台」で公演したのも転形劇場が初めてだった。栃木県の大谷石の採石場での公演……地下80メートルの洞窟。合宿しながら劇団員が二カ月かけて創り上げた舞台と客席。当時のぼくたちは、俳優というよりも完全なるガテン系労働者だった。摂氏2度の洞窟の中での二時間半の沈黙劇。観客は入場の際に渡されたホカロンと毛布一枚で観劇をしなければならなかった。何百枚の毛布から顔だけだした観客……滑稽かつ愛おしく圧巻だった。

太田省吾は既成の劇場にはないワクワクするような危うい空間と時間を創りたかったのだ。

 

1988年、劇団は解散を決めた。

大きくは、経済と創造の行き詰まりだった。

時はバブル期、しかしぼくたちにその恩恵など一切なかった。

解散をするという情報を聞きつけて、ある大企業から劇団のスポンサーになりましょうという申し出があった。当時羽振りのいい企業が「文化」に対してサポートすることは珍しいことではなかった。これで解散を避けることが出来る、新しい創造も出来る、多少そう考えたのも事実だ。

だが……太田さんはこう言った。

「ぼくたちは、いままで自力でここまでやってきた。だから、最後まで自力でやり遂げたい。サポートはありがたい話だが、創造集団として解散は前を向いての選択だ」……と。

予定通り1988年冬、劇団は解散した。

 

所属していた劇団員の将来は、そのほとんどが白紙のままだった。沈黙劇という特殊な演劇ゆえにすぐに別の舞台や劇団という訳にもいかなかったのだ。

俳優という衣装を脱ぐものもいた。

もちろん愛着はある、芝居にもそれに関わった人たちにも……

喧嘩別れなら愚痴のひとつも言えよう、だが厄介なことにそうではなかった。

劇団としてやるだけのことをやり尽くし、倒れるまでやり通した。

そしてぼくたちは深く重い疲弊を味わった。

 

解散後、ぼくは芸能事務所に所属した。

当時はVシネマ全盛期、哀川翔さんや竹内力さんに会わない月はないほど数多く出演していた。そのほとんどが「ヤクザ役」だった。映像世界の土台づくりは、この時期の経験や出会いがとても大きく貴重なものになったのは言うまでもない。

 

劇団解散後、いくつかの舞台もやった。それは沈黙劇とは裏腹の台詞劇だった。

ぼくにとっても新しい世界でそれなりに冒険や挑戦の気持ちもあった。

もちろん太田さんも観にきてくれた……そしてこう言った。

「大杉、面白いか、この芝居……やってて面白いかなぁ。ただ演じているだけで……」

エエッと思った。ぼくなりに一生懸命取り組んでいるのにそんな言い方ってないだろう!?

太田さんの言葉は、まっすぐにぼくのこころに刺さった。彼は多くを語る人ではないが、その辛辣な言葉はぼくへの愛情なんだと理解した。

太田省吾さんが亡くなってもうすぐ一年が経つ。

しかし、ぼくの中で太田さんは生き続けている。彼の言葉や厳しい目が、ぼくのゆるんだ背中をまっすぐにするかのように棲み続けている。

五年前のぼくの最後の舞台は、太田省吾作・演出の「↓ヤジルシ」だ。太田さんとはもっともっと深く過激な舞台をやりたかったが……それも実現不可能になった。

ぼくの次の舞台の予定は今のところない。

まあ慌てないでゆっくり腰を上げようと考えている。ぼくの「↓ヤジルシ」探しのために!

 

「音楽と人」2008年8月号掲載