ことば

COLUMN

連載28「普通を演じる」2000年7月30日

 フジテレビジョンの連続ドラマ「太陽は沈まない」が終わった。「映画とテレビの演技はどう違うのですか」。取材でよく聞かれる質問だ。しかし、違いなんてあるだろうか。映画用の演技とかテレビ向きの演技なんてほんとにあるのか。
 映画はスクリーンが大きいから大げさな演技がいいとか、テレビは現実味のあるナチュラルな演技がいいとか、それは大きな間違いだと思う。おそらく、その作品の役にふさわしい演技が出来たかどうか、それしかない。
 「太陽―」では、医療ミスを犯した外科医を演じた。撮影に入る前にプロデューサーの山口さんと、打ち合わせの中で、「たんに悪い奴ではなく、結果として悪い奴になってしまう、そんな医師になるといいですね」
 そんなことを確認した。
 これまでも悪い奴というのは数多く演じてきたが、今回は普通の父親でありながらも医療ミスを犯してしまい、そのミスを隠そうとする気持ちが結果<悪い奴>になる、そういうことなんだと理解した。
 ここで大切だと思ったことは、普通の父親の在り方というのはどういうことなのかということだった。
 ぼく自身、普段何気なく普通でありたいと口にすることがあるのに、突き詰めていくと、どのような形が普通であるのか答えることができないのだ。
 ましてやそれを<演技する>ということで言えば、できるかぎり普通らしくふるまっているにすぎないのであり、<普通であること>と<普通を演じていること>は、まったく質の違う顔を持っているものなのだ。
 違うということはわかるのだが、それがどう違うの変わらない。すでに番組は終わっているにもかかわらず、宿題だけがそこに残った。
 ぼくは、宿題のことを考えている。だれかに出された宿題ではない、自分が出した宿題なのだ。提出の期限もない。いや、提出する必要すらない。そんなことで右往左往している。
 もしかしたら、演技の中では<普通である>ことが一番難しいことなのかもしれない。
 類型ではない「2000年・普通探しの旅」は続く。