ことば

COLUMN

連載43「森崎東監督と殿山泰司さん・2」2000年11月19日号

 12年前、森崎東監督「ネコババの女」であこがれの殿山泰司さんと共演させていただいた。穏やかに暮らしていた家族の崩壊と再生を、弱者の立場からとらえた森崎東監督らしい作品だ。
 当時のぼくは、テレビドラマの撮影に慣れていなかったこともあり、クランクアップする日までずっと緊張していた。殿山さんと現場でお会いしても、話をさせていただく心の余裕などまったくなかったのだ。
 「大杉さんは<ドブと海>どっちが好きですか」
 唐突に森崎監督が言った。
 「ドブと海ですか、うーん・・・・・・ドブですね」
 「そう、ドブかぁ」
 監督の目がかすかに緩んだ。意図はなんなのか。まるで禅問答に敗戦した新米僧侶のように、その場に立ち尽している自分。
 「殿山さん、大杉さんもドブだって」
 監督のうれしそうな声が聞こえた。振り向くと、殿山さんがこっちを見て子供のように笑っていた。
 帰りの電車の中、今日の撮影について考えていた。なぜもっとうまくセリフをしゃべることができないのか、もっと楽にできるはずなのに。いや違う。セリフをしゃべる以前の気持ちができていないから・・・・・・気持ちがあれば自然とできるはずじゃないか・・・・・・いや、演じようとするから駄目なんじゃなかろうか。ボール遊びに興じる男が一人。打ち返してくれる人はいない。
 その時だ。
 「ドブって答えたんだよねぇ」
 独特のイントネーションと聞き覚えのある声、ぼくはゆっくり振り返った。殿山さんだ!
 「ああっ、お疲れさまでした」
 「おお、お疲れさん」
 それだけ言うと、手ぶらの殿山さんは少し離れた席に腰を下ろした。斜めに刺した夕日が殿山さんの顔を照らした。プラーッと散歩にでも出かけたかのような初老の男がいる。
 孤高だ!